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執筆者の写真odorusakana

見たい景色はどこに


見たい景色はどこにある?

それが分かれば苦労はしない。 見たい景色はいつも今のその先にある。 あるいは過去の記憶のその奥にある。 舞台で見たいのは完成されたパフォーマンスではない。 (本当に完成されたパフォーマンスは見てみたい) うまい踊りも何かの意味を説明する踊りも見飽きている。 (本当にうまい踊りにまだ出会っていないだけかもしれない) 舞台で見せたいのは踊りがただ踊りとして変容していくその様である。 (ただしその踊りが偽物ではいけない) その変容してく中に真理がある。 (ただしその踊りが本物ならば) 変わっていき流されていく中におぼろげながら見えてくる概形。 (でも本物の踊りってなんだ?) 実体のないそれこそが近づきたいもので、 (だいたい踊りってなんやねん?)

手を伸ばしても触れられないのはわかっていても、 (一つ言えるのは)

見ようとして動かなければ見えることのない景色。 (踊りに実体なんてない) 動き踊り続けることによってのみ立ち上がってくる景色。 (でも時に踊りは美しい) それはおそらく1時間や2時間の舞台で見えるものとは次元が違う。 (そして時に醜い) どちらが高次元、低次元とかいうことではなく、いつもと使う秤と物差しが違う。 だから、

それをやってみる価値があると思ったダンサーがいて、 それに賛同を示してくれる劇場があったから開催が出来た。

それに賛同して衣装を作ってくれた方がいて、 そこで起きていることと関わることを面白がってくれたアーティストがいて、 何が起こるか何が得られるかもわからず足を運んでくれた人がいて、 何が起こるか見当をつけて足を運ばなかった人がいて、 気にかけてくれた人がいて、 気に留めなかった人がいて、 応援してくれた人がいて、 知らなかった人がいて、

全部ひっくるめて当日の空気が醸し出された。

そしてそれぞれの関わり方をした上で何かを得て帰った人がいて、 疑問を呈して行った人がいて、 もやもやした人がいて、 24時間怪我なく(その後、筋肉痛もなく)踊り続けられたことに安堵しつつ、 最後の10分にとんでもなく集中した時間が訪れたために、 果たして他の23時間50分踊っていたのかどうかがわからなくなったけど、 その時間があっての最後の10分だと考えるとやはりすべて踊りに帰結するので、 あれはやはり24時間のダンスだったと半月が経って腑に落ちつつあるダンサーがいて、 今回の内容への出来の良し悪しや賛否はともかく、なんらかの形で関わったうえで、

ありがたいことに、次(1年後)の機会を楽しみにしてくれている方がいる。 これは、自分の信じる方向へ進んで良いと言われているようなもので、 この事実こそが今回24時間ソロをやった意義で成果だと思っている。

2012年に、「1時間の『作品』を作る!」と自腹を切って劇場を借りてソロ公演を打った。 スタッフにも恵まれ、1日3回公演述べ120人の観に来てくれた友人知人が喜んでくれ、 公演中に踊りの神様に「踊り続けなさい」と言われた気がしたのに、 金銭面でも体力面でも精神面でもこのやり方では続かないと悟り、後が続かなかった。

「今日はみんな良く言ってくれてるけど、問題はこの後に何がどう続いていくかだ。」 という公演を見に来てくれた先輩ダンサー/振付家の言葉が常に頭をよぎっていた。

あの時とは明らかに違う手応えがある。 24時間ソロの前には3週間、西日本を旅しながら資金を集める初のツアーに挑戦し、 各地で新たな人たちと出会いながら自分のやりたい方向と手法を再確認した上で、 その後の一年間のノルウェーでの研究&作品制作に向けて、 つまりその先の景色に向かうための24時間ソロダンス。 24時間わりと動きまくっていたにもかかわらずどこも傷めず筋肉痛一つなく踊り切ったのは、 この2年ほど研究していた「動けば動くほど楽になる体の扱い方」の実証実験としても 少なからず意義があった。(肩腰に多少の張りが出たことは今後の課題) また、ホームと呼べる場所があって、スタジオを使って良いと受け入れてくれる場があり、

目下、西日本ツアーと24時間ソロのおかげで課題だらけ。 今はこの後が続いていく気しかしていない。 ダンスに出会って10周年。 踊りの神様と仲良くなるには程遠いけど、 ここまで続けてこれたからには、続けないわけにはいかない。 この状況に感謝しつつ、 日々精進します。


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