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  • 執筆者の写真odorusakana

身体は「仕事」をしていない?


年末に、運動原理の話を書き始めてそのままになっていた。(こちら

その間に踊ったり踊らなかったり本を読んだりしているうちに、

そのもう一つ前に書いた「生きたヒトの基本構造の話」がアップデートされつつある。

年末の投稿で触れていたのはこんなところ。

僕らの身体は生まれた時から三次元空間にあり、生まれた時から既に姿勢を維持するのに力を使っている。

実はその状態こそが身体という構造にとってニュートラルな状態なのではないか、と書いた。

力を使っているというとは筋肉が働いていることであるかのような書き方をしていたが、

よく考えたら皮膚だって姿勢(形状)を維持するのに働いているし、

骨だって身体の重さの大部分を支えているから働いているし、内蔵だって常に働いている。

脳をはじめとする神経系も然り。

このように個々を挙げればキリがないが、

ヒトの身体という構造を考えるにあたっては骨や筋肉といった個々の要素の集合体としてではなく、

自立した一つの複合体(システム・系)として捉えた方が良さそうだ。

(もちろん身体システムは外部と常に交換を続けているから完全に自律ではないが。)

例えば、水素と酸素が化合すると水になる。

そのとき、水の性質は、水素の性質とも酸素の性質とも別のものである。

これは極端な例だけど、イメージとしては近い。

輪ゴムにどれだけ強度があってもそれだけを組み合わせて重力に逆らう構造を成すのは難しいし、

割り箸がどんなに硬くてもそれだけの組み合わせで潰されてもひとりでに元に戻る構造は作れない。

だが、それらをうまく組み合わせることで自立したテンセグリティモデルを作ることができる。

それぞれの材質が、重力のもと、元の状態を保とうとすることが相互に作用することで、

元の輪ゴムだけ、割り箸だけでは持ち得なかった特性を持つ一つのシステムに落ち着こうとする。

テンセグリティの構造を保つためには、

輪ゴムがきつすぎない、かつ、割り箸が弱すぎないあるいは重すぎない

というある範囲に入っていれば良い。

よっぽど二つのの材質の強度や大きさのバランスが悪くない限り、

きれいに形を成してくれる。あるいは一見歪んではいても、

その時その状態なりに最適なバランスに構造自体が落ち着こうとする。

これはバランスの問題で、色々条件を変えて作ってみるとわかる。

輪ゴムのサイズや材質を変えてみたり、一本の割り箸にかける本数を変えてみたり、

柱になる部分を割り箸ではなくストローに変えてみたり、その長さを変えてみたり。

相対的に割り箸が軽く、ゴムの張りが強いと潰すときに大きな力が必要だが、

潰された状態から元に戻ろうとする力は強くなる。

ただし、ゴムと割り箸の継ぎ目にかかる負荷も大きいため、壊れやすい。

相対的に割り箸が重く、ゴムの張りが弱いと簡単に潰せるが、その分戻ろうとする力は弱い。

このバランスがさらに崩れると、自分の重さに耐え切れず元の形を保てなくなる。

(まるで、死にかけ、あるいは生まれたばかりで立ち上がりかけている生き物のよう。)

これは身体も同じ。

輪ゴムを筋肉、割り箸を骨として置き換えると、もう少し身体に近付く。

輪ゴムと割り箸、つまり筋肉と骨のバランスが取れている限り姿勢は保っていられるし、

それぞれのバランスが良ければ連動もスムーズである。

ただし、全体に力が入っているとその部分を動かすのにより大きな力が必要で、

反対に全体が弱すぎてもその運動自体に身体がついていけないこともある。

また、どこか一箇所に負担がかかるようなことがあれば、

そこが壊れるかどうか(ケガをするかどうか)は主にその部分自体の強度にかかわる。

ある筋肉だけが極端に弱いと、その方向にバランスを崩しやすくなる。

その結果ある骨に過度の力がかかると、そこが折れてしまうかもしれない。

ある筋肉が極端に硬いと、その部分に負荷がかかり痛めやすくなる。

全身が緊張して筋肉が硬直していると関節の動きが鈍くなり、

結果として全身の連動もうまく働かないのでどこか一箇所に力が加わりやすく痛めやすい。

全身を緩めすぎるのは一見良いことに思えるかもしれないが、動くのにもう一度力を入れる必要があり、

油断しきっていると不意な力によって関節に大きな力がかって骨同士をつなぐ靭帯を痛めることもある。

弱い骨なら反動で折れてしまうかもしれない。

だから、ケガを防ぎつつ持続可能な運動をするということを考えたとき、

どこか一箇所に負担がかかるようなやり方で踏ん張るのを避け、

なるべく全身に力を分散させるような動き方をするというのが基本になりそうだ。

これは、耐震ではなく免震を優先する考え方に近い。

何が起きてもがっちり動かない重厚長大で頑丈な塊を目指すのではなく、

各関節が少しずつ動くことで衝撃を吸収しつつ、壊滅的な破壊を防ごうという試みだ。

また、そのような身体の状態でいると、各関節がしなやかに連動することで鞭のようなしなりが生まれ、

加えた分以上の力で対象物に対して仕事をすることもできる。

これがもし全身を固めていたなら簡単にはじき飛ばされ、最後は地面に落ちる。

もし、落下の瞬間まで身体を固めていたなら、身体は硬い地面からの衝撃を受けて十中八九ケガをする。

あるいは死ぬ。

それを防ぎたければ、猫がやるように身体をひる返し、

武道の受け身のように地面から受ける力をいなす方向で対処する必要がある。

身体を固めていたらこのように着地するのは難しいが、せめて落下の瞬間だけでも身体を柔らかく

連動させられれば無傷で着地することも不可能では無いだろう。

少なくとも、輪ゴムと割り箸で作ったテンセグリティモデルの落下を見ていると可能に思える。

衝撃を吸収するためには地面をしっかり掴んで離さず、かつ全身の関節を固めないことが重要になる。

しかし、ケガを防ぐという観点からは、力にわざと負けて動かされてしまうのも手である。

これを「力をいなす」という。

このいなした力を利用して立ち上がったり、次の動きにつなげることもできる。

いなしてしまえば、その力をリユースすることができる。

次に自分から動き出さなくても良くなる。

ところで、100%自分の意思で動き出すということは可能なのか?

答えは否。

純粋な意思というのは、哲学的な定義でいくと周りに全く影響されずに行動を決める力らしい。

そう言われると、そんなことは不可能だというのがすぐわかる。

自分が何かをするときには必ず周りから影響を受けている。

その影響を受けて自分の感覚と対立する形で強制されて動けばそれは受動的で、

影響を引き金に自発的に動き出せば能動的とみなされる。

少し乱暴だけどイメージとしてはこんな感じ。

力の話に戻ると、

歩くためには地面の支える力が必要だし、泳ぐためにも水の抵抗が必要だ。

言い換えると、地面があるから歩けるし、水があるから泳げる。

これは、動きたい方向に動くためには、周りの支え(抵抗)が必要ということ。

周りの支え(抵抗)がなければ動けないから、自分だけの力では歩いたり泳いだりできない。

つまり、自分の力だけでは動き出せない。

そして、

僕らの身体の仕組みは、自分の力だけでは運動できない世界に適応するように出来上がっている。

生物が誕生してから現在に至るまで、ずっと地球上の環境に適応する形で生物は進化を遂げている。

人間もその進化の樹の一つの枝にいるのだとすれば、

人の身体の仕組みも地球の地表面あたりに普遍な物理法則を前提としている。

物理学の「仕事」というのは、

物を移動させた距離に応じて決まる。

物を移動させなければ仕事をしたことにならない。

だから、姿勢を保つために働いている身体の中の全ての部分は物理的に仕事をしていない。

同様に、建物を支えている柱や梁、吊橋を支えているロープやワイヤーは仕事をしていないことになる。

だけど、それらの材は無くてはならないものだ。

無くなると支障をきたすのだから、物理的に「仕事」をしていないというのは納得しがたい。

(この辺りの定義の問題は、僕が勉強不足なだけかもしれないけども。)

等しく同じ物理法則に則って作られているはずの生物の身体が、

その物理法則と感覚的に矛盾するのだとしたら、その法則を疑ってみる必要がある。

間違っているのでは無く、恐らく定義が不十分だから。

何か全く新しいことではなく、ずっとそこにあったのに気にしていなかっただけ。

そんなつい見過ごしていたものがそこにあるのではないか、そんな気がする。

なんやかんやで今回もまた動き方の話にはたどり着けなかった。

「なるべく少ない力で身体という構造を支えられるバランスを探り(ニュートラル)、

スムーズな関節の連動ができるだけの繊細な力の緩め方入れ方を身につける」

ということを普段から意識しているのだけれど、どうすればそんなことができるのか?

これはいろんなやり方があるかもしれないが、

手足の指などの末端を意識する方法が僕にはしっくりきている。

まだ少し整理が必要だし、また日を改めて書くことにします。


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