top of page
検索
  • 執筆者の写真odorusakana

祈りと踊り


踊りってなんだろう。 そういえば身体の事で頭がいっぱいで、

この3年間踊りのことをあまり意識してこなかった。

"Dance is pray."

3年前に怪我をした時によく話していた友人はこの夏、そう言い切った。 踊りの本質がパフォーマンスは言うまでもないとして、

「踊りは音楽」ぐらいの方がしっくりきていた僕は、 ふうん、そんなものかと聞き流していた。 先日、新品の薪ストーブの火入れのタイミングに居合わせ、 火入れの踊りをする事になった。 冗談交じりに頼まれたのをいい事に、自分から踊らせてくれと申し出た。 ゆらゆらと燃える炎の波長にただただ身体を馴染ませた。 ただそれだけだったが、久しぶりに「踊った」実感がわいた。 その次の日、50人の前で踊った。 踊りを見に来たのではなく、居合わせただけの人たちの前に身を晒す。 この(互いに)残酷な状況で、いかに自分の踊りに引き込むことができるかという挑戦。

どんなにイメージしてもなかなか構成が決まらない。 あれやこれやと考えたあげく、最後はシンプルなアイディアに落ち着いた。 踊りに場を引き込むための必要最低限の仕掛けさえ見つかれば、 パフォーマンスの8割は仕上がっている。 あとはその場に身を馴染ませるのみ。 立ち上がる踊りを信じるのみ。 ふと、これって祈りなんじゃないかと思った。 祈りはその場の空気を変える。 踊りもその場の空気を変える。 どちらも景色が変わって見える。 昔、ある役者さんに、自然の中で踊るのって恥ずかしく無いかと聞かれたことがある。

それは多分踊り方によるよなーというのが率直な答え。

大自然の中でまんまストリートダンスをしていたら、見ていて恥ずかしいかもしれない。

でも、街でストリートダンスを踊るように、山で山の踊りをしていたら様になるんじゃないか。 街には街のリズムがあるし、山には山のリズムがある。

それを自覚して意図的にずらしたりズレを遊ぶのは良いけれど、 それに合わせられない、あるいは自覚出来ないのは音楽で言う所の音痴と同じ。 思わず耳を塞ぎたくなるように、思わず目を伏せたくなる。 それはおそらく踊りとしてうまくいっていない。 パフォーマンスではあっても、踊りではないかもしれない。 人前で踊る以上、踊りにパフォーマンスの要素が絡むことは否定しない。 同様に、祈りの儀式も人前で行う以上はパフォーマンスである。 しかし、どちらも見せること(パフォーマンスすること)は第一目的ではない。 そこに目撃者がいなくても行うものである。 踊りは祈り。 そう言いのけた友達は、あながち間違っていないかもしれない。

祈るように踊れたら本望である。 では演劇は、祈りなのか?

踊りと演劇の違いを考える上で、これは面白そうなのでまたいつか。

(photo by Hiromasa Takahashi)


閲覧数:314回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page