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何かを踊る症候群

  • 執筆者の写真: odorusakana
    odorusakana
  • 2018年5月18日
  • 読了時間: 2分

何かを踊らなきゃいけないのか、 ということを最近よく考える。 踊りが何かを踊っているというわけではなく、 ただ踊っているだけだが、それが美しかったり、何かの意思表示をしている、 そんなことってある気がする。 というかそれだけで良いことが多々ある。 「作品」にするのだとしても、 あるときある場所でただ踊っているという行為自体が何かの表現である、 みたいな作品ができないものかと考える。

今、なにかがそこで起きる時の「ちょうど良さ」を今探っている。

それは空間にも時間にも規定されながら自身の体を得たい結果に近付けようとする作業。

自分の意思は必要だがそれだけではどうにもならない状況と対話しつつ得たい結果を手に入れる、

そのちょうど良さ。

野球選手がフライを取る時に、打球の角度や風の強さを読んで、

「ちょうど良く」落下点に体を持っていくことができること。

朝起きてから目標の出発時間までにうまく家事を終わらせて(あるいは切りをつけて)、

「ちょうど良く」家を出発できること。

食べ物を発酵させる時にちょうど良い具合に手を入れて(あるいは手を入れずに)、

「ちょうど良く」発酵させられること。

「ちょうど良さ」という美しさ。

何が起きてもちょうど良い終わりを見つけられるという行為の「美しさ」。

しかしちょうど良く踊るとはいったいなんだろう?

あまりにとっかかりがなさすぎるから「ひとしきり」踊るというタスクを課し、

時間と空間に対するちょうど良さを探し始めた。 さて、

その踊りの「ちょうど良さ」に「ちょうど良い」体(の扱い方)ってどんなんだろう?

体の中も空間。

動いているから(連続的に入れ替わり続けているから)形と機能を保っていられる、生きている体。 時間という尺度から逃れられない生きた空間。

もしこの答えが出たら、

何かを「踊る」ということから逃れられるんじゃないかなぁと思いつつ、

こんなこともできるやん!となって表現し始めるのか、それはまだわからない。

そもそも問いの立て方がまずいってこともあるわけで。

なんにしてもこの実験の行き着く先(ひとまずはひとしきりやったあとの着地点)が楽しみなのです。


 
 
 

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