これまで、自分は掃除が好きなんだと思っていた。でも、部屋の中がとっ散らかっていても気にならない時は気にならない。例えば、自分の部屋は限界までとっ散らかっていても気にならない。誰かが勝手に掃除をしようものなら、焦る。どうにもおかしい。矛盾している。 最近ふと、自分は「手入れ」をすることが好きなんだと気がついた。それも、自分「が」属する(※)と思っている場所の手入れをすること。オフィス、稽古場、共用のリビングルーム、キッチン、トイレ、廊下。他の誰かも利用するけれど、自分もその利用者の一員だから自分の使っている時間ぐらいはきれいに使いたい。立つ鳥跡を濁さず。でもこれは外向きの理由で、理由の一つでしかない。他にも理由がある。 すでにある程度きれいな場所をもう一度、自分のやり方で一通り掃除をすることでその場に対する感度が上がる。より細かいところに気がつくようになる。その部屋が他人のものではなくなり、自分も一時的に所属する場所となる。結果的に、その共用の場は自分の居場所に「トランスフォーム」する。そこは自分だけのものではないが自分の場所でもある。その居場所では、その場を自分の間合いに持ち込みやすくなる。 つまり、自分は他人から見たら「掃除」に見える行為をしているが、「掃除」がしたいわけではない。「掃除をする」という行為を通して、その場所を拡張された自分の身体として手入れをすることが目的であるである。場所を丁寧に掃除をすることで、(結果的に)心身がその場に馴染んでいく。その身体と空間の状態を生み出したいから掃除をする。 ※自分「に」属すると思っているものは割とどうでも良い。例えば自分の部屋。あえてそのままにしておくことで整理されている思考(あるいは記憶されていること)がある。でも、あるとき頭の整理がうまくいかなくなると、無性に部屋を整理する衝動にかられる。そして掃除をする。 自分は名詞の「ダンス」・「踊り」がそんなに好きではないし、そんなに信用していない。でも、動詞の「ダンス」・「踊ること」は好きである。また、他人や場が踊っている現場に居合わせることも好きだ。踊りを見て自分の体の各部分がむずむずと反応するのも好きだ。そういう踊りをするダンサーも好きだ。でもそれは、「踊り」が好きということとは違う。
おそらく、踊るという行為を経て生み出せることがある間合いの取り方(あるいは自分の呼吸)、その何か状態のようなものが好きなのであり、それが自分に必要だから踊っているのだろう。だから歌うこともあるし、料理をすることもあるし、掃除をすることもある。でも自分の間合いで歌えない歌、自分のペースで作れない料理、自分のペースでできない掃除は嫌いである。そんなことをしていると、すぐに踊れない。やっぱりどこかですべて踊るという行為に帰結する。
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